2014年12月1日

善人 #3(おしまい)

善人 #1
善人 #2

 扉を叩く音で目が覚めた。ばねのように勢いよく起き上がると、再び同じ音が聞こえた。
「ヤマト運輸でえす、メール便の配達に参りました」
 時計を見るともう昼過ぎになっていた。僕は起き上がって玄関へ向かった。ドアノブに手を掛けようとして、ちょっと待て、と自分を制す。琴乃が消えてから数時間。何かの異変に気付いて僕の所へ来る人物がいてもおかしくはない。たとえば警察、あるいは琴乃の彼氏。このドア一枚挟んだ向こう側にいる人物は果たして本当に配達員なのか? 僕は恐る恐るドアスコープを覗いた。男が一人立っている。服装は本物のヤマト運輸の制服らしい。またノックの音がした。
「はっ」
 あまりに突然だったので僕は驚きの声を上げてしまった。これで僕がここにいることが気付かれてしまった。仕方がない。静かに扉を開いた。
「あっ、どうも。鈴木昌治さんのお宅でお間違いないでしょうか?」
「えっと……あ、はい、そうです」
 男は健康的に日焼けした、がたいのいい体つきをしていた。声が大きかった。
「あ、えと、印鑑……」
「印鑑は結構ですよ。メール便なんで」
 男は小さな小包を僕に手渡して、
「ありがとうございまあす」
 と言って去っていった。扉を閉めて、冷や汗が止まらない自分に気付く。手が震えていた。
「ふう、ふう」
 もたつく指で鍵を掛けた。手に持っている小包を見ると、送り主の名前はAmazonとある。開封すると、その中身は僕が以前から予約していた音楽のCDだった。僕は乱れる呼吸を落ち着けて、リビングのソファに腰を落とした。いったい僕は何に焦っていたというのだろう? いい年をした女が一日家に帰らなかったくらいで警察や彼氏が動くものか。千切れた生首の入った小包が送られてくるわけでもあるまい。何も恐れることなどなかったのだ。なのに、なぜ? 僕は何を恐れていたというのだろう? 罪悪感はない。きっかけは、事故だった。だから僕が気に病む必要もない、はずなのだ。
 ああ、そうか。僕が恐れていたのは、僕が何も恐れていない、罪悪感がない、という事実だったのだ。人を殺しておきながら普通に過ごせてしまいそうな自分自身が怖く、他人に普通だと思われることを恐れ、そして怯えていたのだ。人を殺して普通でいられる人間は普通じゃない。ましてや善人だなんてもってのほかだ。人を殺した人間はどう振る舞うのがもっとも自然なのだろう? 今の僕にとってそれが一番重要な問題だった。僕はただじっとその考えに身をやつした。時計を見る。死体を埋めたときと違って時間の流れは遅く、じっくりと身を心を削いでゆく氷河のようだった。
 そのときだった。扉が強く叩かれる音が聞こえたのは。また荷物の配達だろうか、と思うが、そんなはずはない。他に何か注文した記憶はないし、誰かから贈り物を貰うような心当たりもない。新聞や宗教の勧誘だろうか?
「わたくし、矢車といいますが、こちらは鈴木さんのお宅でいらっしゃいますか?」
 違った。矢車? 聞いたことのない名字だ。誰だ? またノックの音がした。僕は立ち上がって玄関へ向かう。そしてドアスコープをのぞく。シャツにスラックスという小綺麗な格好に身を包んだ人の良さそうな優男が立っていた。男はまたドアを叩いた。
「鈴木さあん」
 男は自分の名字以外の情報を何も明かさず、しぶとく僕の名を呼び続けた。まるで僕がここにいることを知っているみたいに。かれこれ二十分は経った。僕は怖くなってきた。さすがにこれほどまで粘るのは異常だ。男は僕がしたことを何か知っているとでも言うのだろうか。まさか、死体を棄てるところを見られたとか? 僕はここから逃走することを考えたが、すぐに無理だと気付く。ここはマンションの五階だ。ベランダから飛び降りることは不可能な高さだし、伝って降りられるようなロープもない。唯一の出入り口である玄関には、男が立ちはだかっている。僕は諦めて矢車と名乗る男と会うことにした。彼が何者なのかという興味もあった。薄く扉を開けた。
「あれ、いらっしゃったんですか。良かったなあ」
 矢車は扉の隙間から白い歯を見せて笑った。
「掃除機をかけてまして、全然気付きませんでした。音がうるさいんです、CMでやってるあれの旧型の……。ええと、あの……用件は?」
「ああ、そうでした。ここへ僕の彼女、琴乃が来ていないかどうか確かめに来たんです。実は昨晩お邪魔したんですけどお留守だったもので……。どこかへ行っていらっしゃったんですか? しかし、お会いできて良かったです、本当に」
 驚いた。まさかこんなに早く琴乃の彼氏がここを嗅ぎつけて来るなんて。
「それじゃあ、あなたが慎一さん……」
 言ってから失言だと気が付いた。やはり今日の僕は疲れているらしい。
「ああ、やっぱり僕のことを知ってらっしゃる」
 矢車は笑った。表情筋の使いかたが上手な男だと思った。琴乃とは違う笑顔だ。自分をよくコントロールできる人間は危険だ、周囲の人間さえも操れると思い込んでいるところがある。彼もそうなのだろうか? 矢車は僕の失言を見落とさず笑う。矢車にとって僕は盤上の駒にすぎないとでもいうように。やはり僕はこの男から逃げられないことを悟る。扉を開いて、招かれざる客を部屋の中へと迎え入れた。矢車は琴乃の座っていたソファに深く腰掛ける。そしていきなり本題に入った。
「琴乃はどこです」
 どう答えるべきか、僕にはすぐに判断することができなかった。僕は善人だ、ただその自意識だけが僕を動かしていた。少し考えてから、僕は知らないふりをすることに決めた。うっかり人を殺してしまった人間がそう振る舞うのはとても自然なことのように思えた。そうだ、自然、それが最も大事なことだ。僕は安堵を隠しながら、
「さあ」
 と答えた。
「彼女は昨日の夕方に突然やってきて、少し話したあと軽い口論になりました、だってそうでしょう、うまくいかなくて別れた女なんだから、にこやかにお喋りなんてできるはずもありません、それで彼女、琴乃は帰っていきました。それ以降のことは知りませんよ」
 声が微かに震えた。そうだ、それでいい。僕は全然平気じゃないのだ。
「ご冗談ですよね? それではあなた、昨晩はどこへ行っていたのですか?」
 息を詰まらせてみる。肩をびくんと収縮させる。口を開くが、言葉を出さない。言葉が出ないふりをする。
「……な。なぜ、僕が昨晩ここを出ていたことを知っているんですか」
「先ほども申し上げたでしょう。昨晩ここへお邪魔したとき、お留守でしたので」
「ああ、はあ……」
「もしかしてわざとやってます?」
 矢車はさっきからずっと笑顔のままだ。それも細かな変化に富んでいる。驚きや疑念を笑顔に乗せて表現しているようで、実に不気味だ。僕は口角をつり上げて曖昧な微笑みを返した。
「それで、昨晩はどこに行っていたのですか?」
「それは……」
 山だ。だが本当のことは言えない。僕はどこに行ったと答えるべきだろうか。それにしてもどうして矢車はこんなにしつこいのだろう。いい加減にしてくれないと疲れてしまう。
「答えられないのですか? 答えられないような場所、ということでしょうか」
 矢車の笑顔に敵意が浮かんだ。何だ、この男は? いったい何を疑っているのだ? 僕は普通の、そう、普通の人間なのだ。仕方なく人を殺してしまっただけ。だというのに、矢車はいったい何を企んでいるというのか。矢車は立ち上がった。
「あんた、俺の女と寝たのか」
「は?」
「……そうだ。昨晩はホテルにでも泊まっていたんだろう」
 矢車はなぜかそう確信しているようだった。あまりに突拍子もない発言に面食らってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。誤解です」
「汚いレイプ野郎が、糞!」
 矢車は僕の弁解など聞く耳持たずといった面持ちで、僕が差し出した麦茶、さっきから全く口をつけていなかったガラスのコップを、僕の頭部めがけて投げつけた。咄嗟に目を閉じて首で躱そうとしたが、コップは僕の側頭部に直撃して割れた。こめかみからだらりと血が流れた。暖かい血液。僕は琴乃を思い出した。白くなった手首を、首の肉が裂ける感触を。僕はあの女と、もう数年間も寝ていない。胸が痛かった。勝手な想像でレイプされたことにされてしまった琴乃に心底同情した。そして僕のプライドがそれを許せなかった。ありもしない汚らわしい嫌疑を向けられて、少しだけ怒りが沸いた。
「だから、誤解だって」
 僕が声を荒げると、矢車は肩で息をしながらも黙った。僕は目をそらさず言った。
「僕は琴乃と寝ていないし、それに近い状況にもなっていない、本当に僕らはもう他人としてしか関わり合っていないんだ。だからその疑いは誤解だ。僕に対しても、琴乃に対しても失礼なことだし、撤回してほしい」
「そんなことを言われても、はいそうですかと素直に信じられるわけがないだろう。……だったら琴乃の居場所を教えろ」
「それは……」
 まただ。僕はまた失言を繰り返したことに気付く。ああ、でも、これでいい。僕は焦っている。この矢車という男にじりじりと追い詰められていることに恐れを感じているのだ。これが自然。だから、これでいいのだ。僕は笑みを隠そうと口元を手で覆った。そのとき、矢車が何かに反応した。
「ちょっと待て、その指先……」
 矢車が僕の手を掴んで強引に引き寄せ、その指先をじっと見つめた。
「なんだ? この爪に残った土は」
「山です」
「は?」
「嘘です」
「おい、あんた、いったい何を……」
「失礼。言葉がまとまらなくて」
 仕方ない。僕はいくらか話すことにした。
「先ほど琴乃と喧嘩して別れたと言いましたね。あれは嘘です。本当は、山に行っていたのです。琴乃を連れて」
「は、山? 何しに?」
「穴掘りです。その時に土が爪の隙間に詰まってしまったようです」
「穴を掘って……それでどうした」
 矢車は何かに気付いたような顔をして、それから僕を睨んだ。
「埋めました」
 僕は笑った。今度は上手に笑えたはずだ。
「粗大ゴミを捨てに行ったのです。不法投棄ですがね。琴乃にはそれを手伝って貰いました。それだけです」
 ここでさすがに矢車も何かに気付いたらしい。これでもかというほど目を見開いて僕を睨んだ。眼球に血管が浮いて見えた。
「琴乃はそのあとどうしたんだ」
「さあ。別れたので知りませんね。もう二度と会うことはないかと思いますが」
「……あんた。琴乃に何をした」
 矢車は座っている僕の襟首を掴んだ。首が絞められ圧迫感を強いられる。
「埋めたのは、琴乃だな」
 僕は何も答えない。もう何も話す必要を感じなかった。ただ目に涙を浮かべる矢車を見ていた。
「なんで……なんでそんなことを……」
 矢車は項垂れた。
「あいつにブスって言うと泣くんだ、泣くなブスって言うともっと泣くんだ。気持ち悪いだろう? 泣き方がまた人を苛つかせるような無様なものだから、俺は何度もあいつを殴った……。それでいいと思ってたんだ。俺は琴乃のことをちゃんと愛していたのに……」
 もう矢車の涙はその大きく見開かれた目から流れ出して止まらなくなっていた。僕は小さくつぶやいた。うるさい。黙れ。聞きたくない。
「クズだ。あんたは最低の男だよ、鈴木」
「だからうるさいよ」
 僕は砕けたガラスの破片を握りしめ、矢車の胸に突き刺した。鈍い感触がある。肋骨にぶつかったらしい。矢車は小さく悲鳴を上げたが、僕の襟首を掴む手は離さない。僕はそのまま、もう一度狙う箇所を少しずらして突き刺した。うまく肋骨の間をすり抜けて、心臓に到達する手応えがあった。穴から血があふれ出す。僕が手を離すと、矢車は口からも血を吐いた。きっと心臓と肺を一緒に傷つけたとかで、血が肺を通って口へとせり上がってきたのだ。
「なん、でだ」
 ごぼごぼと血をこぼしながら矢車は叫んだ。床に勢いよく倒れ込み、じきに静かになった。矢車は死んだ。
「――よし」
 僕は満足げにそう呟いた。とても自然な流れだと思った。僕の殺人に気付いてしまった人間を殺す。とてもよくあるストーリーだ。僕は普通の人間なのだ。これでいい。
 なのに、どうして僕はこんなに不安なのだろう。心が落ち着かないのだろう。
 さっきの怪我でこめかみに出た血が右目に入った。血液が目の水分と混じって馴染む感覚があって、少し染みた。痛みでこぼれた涙は淡い赤に染まっていた。僕の手はさらに濃い赤色に塗れていた。
 訳が分からない。どうして僕はこんなに焦っているのだ。僕は善人、本当にそうか? わからない。わからなくなってしまった。だって今までずっとそう言われてきたのだ、だからこれからも、いまこの瞬間にも僕は善人であるべきなのだ。だが、あんたは最低の男だと矢車は言った。そうなのだろうか。僕はクズで最低の男なのだろうか? だったら……僕は誰だ。以前の僕はどこへ行ってしまったのだ。
「頼む、教えてくれ」
 死体は答えない。
 僕はいったいどこで間違えてしまったのだろう。思い返してみれば琴乃が来てから全てがおかしくなった。琴乃……僕が山に埋めたあの人間は本当に琴乃だったのだろうか。そんな疑念が僕を襲って離さなくなった。確かめなくてはならない。僕は車を走らせ、隣県の山へ向かった。
 僕はいったい何を埋めたのだろう。答えは、掘り起こしてみればはっきりすることだ。それできっとすべてが丸く収まって、また僕は善人になれる。きっとそうだ。だから僕は山へと向かう、助手席にシャベルを乗せて。埋まっているのは、たぶん僕だ。

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