2017年10月9日

映画 トリコロール3部作:感想雑記

クシシュトフ・キシェロフスキ監督『青の愛』、『白の愛』、『赤の愛』、通称「トリコロール3部作」を鑑賞。すごく良かった。

キシェロフスキ監督はポーランド出身の映画監督だが、フランス政府の依頼を受けてフランス国旗の三色をモチーフにした映画を製作することになった。それが、それぞれの色が象徴する「自由・平等・博愛」をテーマにした『トリコロール三部作』。1993年から94年にかけて公開された。

ぼんやりと感想を書く。
ネタバレはあります。


1. トリコロール/青の愛


青、自由がテーマ。

主人公ジュリーは、有名な作曲家パトリスの妻。娘が一人いる家庭。
それがどういう家庭だったのかは描かれないけれど、冒頭すぐに交通事故に遭い、夫と娘を失ってしまったと聞かされて流す涙がそれを物語っている。
彼女は深い悲しみに包まれながら、身の回りのすべてを捨て始める。さながら自殺志願者のように。
家具を洗いざらい、財産はすべて。家さえも。
病院から家に戻ったとき、事故のことで泣いている家政婦(?)を抱きしめるジュリーの、その細い腕が好きだ。
他人を抱きしめると同時に、ジュリーは彼女自身を抱きしめていたのだと思う。
彼女の「捨てる」という行為は、夫の残した未完成の楽譜にすら及んで……というところからドラマが動き出す。

ところで、自由とはなんだろう。
あんまりざっくり言うと怒られそうだけど、カントは自律的に課した道徳法則に従うことが自由であるというふうなことを言っている。
「完全に縛りのない状態」や無政府状態は現代では自由と呼ばれることはほぼなくて、実際には何かしらのルールの下にある状況を指す言葉だ。

ジュリーはあらゆるものを捨てることで、それらすべての束縛から解放されようとする。けれど、それは本当の意味での自由ではない気がする。消極的に、何かから逃げるようにして得たものは、自分の手で手に入れたものではないからだ。
「友情も愛も私を縛るワナだわ」という台詞に象徴的だけれど、ジュリーはあらゆる人間関係さえも断ち切ろうとしていく。新居のアパートでの人間関係にも「関係ない」という立場を貫こうとするし、ひとときの寂しさを満たすためのセックスで相手を突き放したり。特に後者はまあ誰が見ても傲慢な振る舞いだろう。彼女は束縛から逃れようとするが、そして得た状況はきっとむしろ不自由なはずだ。
少しずつ他人を傷つけながらも、最終的にジュリーの選び取る選択がどうだったかはさておき、再び「自由」を取り戻す結末には喜びが満ちていた。

青のモチーフは、悲しみや寂しさといったものを想起させる。統一された色使いで描かれる映像はただそれだけで美しかったし、それに出来事や人物の行動、小道具……心情を暗示させるようなモチーフの使い方が巧みで、言葉なくしても意識の奥底を揺さぶられるような感覚に襲われる。
フォアシャドウイングといわれるような技術だけど、これを小説でやるのは難しい。
たとえば背景をさりげなく通りかかった人物がいたとして、映画ではそれをさりげなく描くことができる。そしてしばらく後になってからその人物を思い出させて、主要な人物にさせることも。それはあくまで映画が視覚的な媒体で、ただでさえ情報量が多いからだ。観客は多い情報量から「捨象」して、必要な情報を選び取る。
それに対して小説は、描かれた情報を読者が膨らませていく媒体だ。背景を通り過ぎる人物を描くには、基本的にはそれについて書かなければならない。間接的な表現を凝らすことはできても、長々と書き連ねれば「さりげなく」はならない。端的に、さりげなく、印象的に書くことは困難だ。もちろん、だからこそこの技術は小説においてもよく求められるのだけれど。

キシェロフスキ監督のフォアシャドウイングは実はけっこう露骨だったりもするのだけれど、それはそれで観ている私たちの意識の表象に訴えるものがあるということだ。
それに(ひょっとするとこれが一番の特徴なのかもしれないけれど)、露骨ではあっても嫌らしくないのがすごい。どの画面も美しい。美しくあることによって、私たちはジュリーの悲しみや、傲慢さにさえ寄り添うことができるのだと思う。

最後に、一番好きだったところ。
上には書かなかったけれど、亡くなった作曲家の妻ジュリーもまた作曲の才能があることが作中で何度も示唆される。
作曲家が楽譜を指でなぞるだけで音が再生される、言葉を交わさなくても作曲家同士それを共有できるというのがかっこよかった。
彼女の黙考が、いつも音楽の中でなされるのも。


2. トリコロール/白の愛


白、平等がテーマ。
この作品はネタバレなしで語るのが難しいが、とりあえずストーリーの核心には触れず書いてみようと思う。

でかいスーツケースが空港のコンベアを流れるカットから始まるが、それがなんだったのかは示されないまま、舞台は裁判所へ。そこでは夫婦が離婚調停の裁判をしている。夫はポーランド人でこの物語の主人公・カロルだが、彼はフランス人の妻、フランスの裁判官たちの言葉が理解できない。
妻は「夫が性的に不満で、満足できない」と言い、裁判官は「これは事実ですか」と夫に問うと通訳がそれをカロルに伝える。会話の内容といかめしくも奇妙な状況が可笑しいが、この場面は言語の壁や、フランス(西欧)とポーランド(東欧)の不平等を象徴している。
妻の愛を信じようとして離婚を認めないカロルは「不平等だ!」と叫ぶも空しく、そのまま家も追い出され、キャッシュカードも使えなくなり、妻にも「今はもう愛していない」とまで言われてしまう。

カロルは行くあてもなく貧しくフランスの街をさまよい、その中で偶然、同朋ポーランド人のギャンブラー(?)、ミコワイと出逢うことになる。二人は意気投合、ミコワイはある人物を殺して欲しいと頼み、カロルもまたある計画を立てる……。
ここで冒頭のスーツケースのカットにつながるのですが、そこが面白いところなので割愛。とにかくロードムービー的に酷い目に逢いながらも、しかし中盤からカロルは徐々に成功していく。
主人公の計画の真意が最後まで分からないタイプの物語で、アニメでいうと「コードギアス 反逆のルルーシュ」みたいな。構造だけで言うと、だけど。きわめてエンターテインメント的な構造、あるいはスラップスティック的だとも言えるかもしれない。終盤になって初めて「平等」というテーマが「そういうことか!」とハッキリ繋がるのだけれど、同時にそこで「ああ、やっぱり愛の物語だったのだな」とも思う。

部屋の奥にいる妻が、それをのぞき込むカロルにジェスチャーで思いを伝える場面が秀逸だ。
言語の壁を越え、物語の序盤とは状況がまるで違ってしまっているが、そこで伝えられる愛の言葉はとても深いものだ。
具体的にどんな思いを伝えたのか、それは観客にははっきりと分からない。けれど、その場面は解釈を観客に委ねたというというよりは、私たちには二人に分け入る余地がないということを示しているのだ思う。私たちには二人の思いは分からないけれど、確実に妻のジェスチャーをカロルは理解していて、ただそのことが重要なのだ。

ワルシャワの薄く雪の積もった平原の、白い風景がとても美しい。
日本、特に都心に住んでいると(住んでないけど)雪はとても特別なものだ。雪が降って、交通網がダメになって、自転車も上手く走れなくなって、朝から雪かきまでするはめになったりもして、いい迷惑も甚だしいはずなのに、その風景の白に私たちはワクワクさせられてしまう。どうにでもなれ、という気分にさせられる。
雪の上では何もかも平等なのだな、と思う(強引なオチ)

映像演出的な部分で言うと、静と動とのメリハリがけっこう好みで楽しかった。笑いは緩急でつくるという話もあるし、それがこの『白』のコミカルさに寄与している。
気まずさの沈黙の直後に「オエエエエーーーーッ!!!」とトイレに嘔吐するカットを入れたり、植木鉢をドゴッと落とすカットを入れたり。鮮烈な音を入れるのが特徴的な今作だった。


3. トリコロール/赤の愛


赤、テーマは博愛。
3部作全体のラストを飾る。

ファーストカットは電話の鳴る音とともに。電話線が海峡を越えて繋がっているような映像が流れ、遠くにいることがわかる恋人同士が電話をする。物語のキーになるのはもちろん「電話」だ。

「赤」では二つの物語が交錯する。一つはモデルをしている若い女性・ヴァランティーヌの物語。もう一つは、刑法の試験勉強をしているらしい男子法学生の物語だ。二つは最後の瞬間まで直接的に関わり合うことはないが、物語は互いに重なり合いながら進んでいく。
ヴァランティーヌは恋人とあまりうまくいっておらず、モデルをするとカメラマンから言い寄られるが、やんわりと断る。愛すべき本当の相手を探すかのように。
そんななか犬を車で轢いて怪我をさせてしまった彼女は、そのタグから持ち主の住所を訪ねると、そこで無愛想な老人と出会う。彼は持ち主ではないと言い、ヴァランティーヌが犬を飼うことになる。後にその老人が実は近隣の「電話」を盗聴していた、しかも退官判事だということまで発覚して、ヴァランティーヌは自身の道徳観を揺さぶられることになる。退官判事の言葉はいつも鋭い。「偽善的だ。なぜ犬を助けた。誰のために助けた」
彼女の博愛を偽善と笑い、「自分が正しいと思っているのか? ならば私が盗聴していると伝えろ」と言う判事に、言われるがままとりあえず隣家へ行ってしまうあたりヴァランティーヌの純真さが窺える。そしてその純真さゆえ、彼女はその家の主人が不倫の電話をしていたことをその家族に打ち明けることもできない。

一方、法学生もまた恋に悩んでいる。年上の女性に支えられて厳しい試験勉強に励み、なんとか合格するが、彼女は実は別の恋人がいると知ってしまう。彼は裏切られた恋人に電話をかけてもかけても繋がらず、彼女のアパートに侵入すると……。
彼の物語はヴァランティーヌの物語と交錯しないが、彼は実はさながら退官判事の過去をなぞるように、似たような経験をしているということが明かされていく。
物語は重なり合う。この「重なる」という構造こそ、「青・白・赤」の3部作のラストに相応しい。

結末ではさらに3部作の物語すべてが交錯する瞬間が訪れる。それは『マグノリア』的な結末と言っていい。必然性はない。だが、その必然性のないところに意味があって、救いがあると思う。

退官判事の過去のトラウマや虚無感を満たす、ヴァランティーヌの深いまなざしが愛おしい。あんな目で見つめられたらどんなおじさんでもイチコロだと思う。博愛、まさにこのテーマに相応しいキャスティングだった。
美しい横顔の鮮烈さもまた、そのラストに重なる。
理屈ではなく、有無を言わさずカタルシスに襲われてしまう。映画にはそういう力がある。



最後に、この作品をまだ観ていない幸福な人へ向けて(ここまで読んだ人みんなもう観てる気がするけど)。
100分程度の短めの長編(という言い方も変だけど)×3作なので、5時間かからないくらいの時間で一気見できる。一気見おすすめです。映像もとても綺麗なので、またどこかでフィルムで観られればいいなと思う。
細かな何気ないシーンの一瞬一瞬が、互いに呼び覚まされ合うようなつくりになっている映画なので、『赤』のラストのその瞬間まで走り抜けてみてほしい。

あなたの網膜がその鮮烈な残像を覚えているうちに。

0 件のコメント:

コメントを投稿